【九里】を探して三千里 

曾祖父の苗字をやみくもに調べていたら、いつの間にか一族の歴史に…

九里バラバラ情報

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京極氏と宇津呂氏(2) 三村荘・島郷・一井氏 ・目賀田氏・九里氏との関係

まず、三村荘の代官に宇野教意という人物がいたのだが、なぜか東寺 百合文書のデジタルに【宇津呂】の文字が見える。 もしや、宇津呂氏が宇野氏に養子に入ったのではないだろうか? なぜなら、同じ【意】の文字を使った名前が宇津呂氏にもあるのだ。系図の中…

赤松氏の周辺 と 九里氏 (5)京極高光の周辺 

今回は京極氏を中心に調べてみようと思う。 細川勝元は《細川持之と京極高光の娘》という箇所だが、 調べていくと、足利義尚の相伴衆に、京極政経・赤松政則・細川政元の名が挙がっていた。 細川勝元の息子が細川政元、娘が洞松院(めし殿)である。 めし殿…

赤松氏の周辺 と 九里氏 (3)室町時代の「九里」の記載のある書物 『高代寺日記』 『武家昇譜日記』

『高代寺日記』の中の九里氏と足利義澄・足利義晴 この日記を書いた塩川氏についても記載があった。 そしてこれとは別の【柏原織田家臣系譜】には、佐々木氏に足利義晴の娘が嫁いでいる。 さらに、この母が足利義晴の娘である。佐々木義秀の母。 江源武鑑に…

赤松氏の周辺 と 九里氏 (2)室町時代の「九里」の記載のある書物

《復習》 永正五年 1508年 足利義澄 水茎岡山城へ 永正八年 1511年 3月 水茎岡山城にて『亀王丸』(のちの足利義晴)が生まれる。 6月、亀王丸は足利義澄、朽木氏に守られながら播磨守護赤松義村の許におくられる。 8月には亀王丸の父足利義澄没。 ***…

赤松氏の周辺 と 九里氏 (1)

足利義澄を水茎岡山城に匿っていた時に『亀王丸』が生まれたのだが、彼が足利義晴となるまでには、どのようなことがあったのか。 亀王丸は赤松義村に預けられる。 wikipedia より 播磨での生活 誕生直後、同年6月に亀王丸は義澄派であった播磨守護・赤松義村…

言経卿記 クリ・クリ母・クリカカの記載多々あり(2)

言経卿記 クリ・クリ母・クリカカ とその周辺を時系列に並べてみると、どのようになるのだろうか? いずれも豊臣秀吉の時代になってからのことのようだ。 1500年の初めから書き記していくと、 九里員秀は忠富王記のなかで明応10年1501年迄記載されている。 …

言経卿記 クリ・クリ母・クリカカの記載多々あり(1)

山科言経(ときつね)は、勅勘の身で、彼の室が興正寺佐超室と姉妹であったことから、(本願寺の)興正寺の庇護を蒙り、主として医薬業に依って渡世していた。 言経の日記である《言経卿記》の中に、クリ・クリ母・クリカカという記載が多々出てくるのを見つ…

後法興院記(下巻) の中に登場する 俊泰とは、大江俊泰(北小路俊泰)であり、その父俊宣の養女となった北小路俊子が近衛政家の妻となり、尚通の母となる。

2024年にも記事にしていたのだが、復習もかねて少し深堀してみたい。 論文「戦国期近衛家領、越前国 宇坂庄について」湯川 敏治 著 により、九里館にやって来た大江(北小路)俊泰は、後法興記 下巻の著者の近衛政家の家司であったことが分かった。 そして、…

《九之里村》の情報(1)隋心院領

近江に九之里村があったのは、いつからだったのだろうか? 明治には金剛寺町となっている。 隋心院とは、 隨心院の歴史 - 真言宗 大本山・隨心院 『第5世増俊阿闍梨の時に曼荼羅寺の子房として隨心院を建立し、ついで第7世親厳大僧正が寛喜元年(西暦1229年)…

九里の【紀の庄】と【紀の十】に関しての推論

これは、九里龍作の養母からの手紙である。 明治13年 1月10日に 年賀、本町嫁決まる 6月13日 本町兄息子鉄道へ勤務も失敗あり、其地へ参りても、相手にならぬ事。紀の十老人全快は無理気の毒 8月10日 本町叔父病気心配 まず、一番気になったのは【紀の十】で…

五代友厚の養子、五代龍作の調べた【大江氏系図】、和歌山の九里系図とのつながり

和歌山の九里系図と九里龍作(五代龍作)の調べて書いた系図の照合を試みようと思う。 この直栄以前は大江氏(熊野別当の血脈) 湛融ー宗圓ー永宗(大永時代の人)ー宗範ー家足=直栄(養子・実父は直尚か?) この直栄は、家足の息だが、家足の苗字は、よく…

叔父からのお告げ…『江戸時代を掘れ!』

朝がた、叔父の夢を見た。(お盆ジャストに…) 『江戸時代を掘れ!』 だそうで、今日から江戸時代を調べていくことにしようと思う。 以前は、さらりと本を読んだだけで、江戸時代難しそうだし…とおよび腰であったが、わが九里家の系は「柏原藩」は判明してい…

伊香郡の中の橘氏

https://dynasty.miraheze.org/wiki/%E6%A9%98%E6%B0%8F 伊香氏族 近江の名族にして、伊香氏系図に 柏原神大夫助延─同安助(保元永万の人)─助?(赤尾四郎養子。橘氏)─助時(橘源八、権禰宜)─橘四郎助実─四郎太郎助房─弥四郎左衛門尉助員 と載せ、 建長三…

応永三十四年十二月 源員定(九里員定と推定)

御家人井口中原系図の後、九里が文書に初めて出てくるのが(推定ではあるが)源員定である。 ≪源員定と九里員定≫ 仲村研氏による『研究ノート』より 保内商業の展開過程 ―小幡・石塔との相論を中心に― 44ページ中の15ページ目に【源員定】が出てくる。 『応…

九里亀治郎 島流しに。

物語の中の九里と思っていた人物が、実在の人物と判明しました。九里亀治郎 です。(亀次郎と書いてありますが、本当は亀治郎?)帝国大学赤門由来 三田村鳶魚 (えんぎょ)作お役があるにもかかわらずお酒を飲みすぎ、酩酊し、松平肥前守の泊まる宿に掲げてあ…

九里の歴史  九里源兵衛、次郎兵衛、三郎左衛門

ーー書いたまま眠っていた記事をブログにあげておこうと思いますーー 九里が1525年に滅亡とまで言われておりましたが、 次世代の九里として、 源兵衛が1537年から【鹿苑日録】に登場し、途中で九里対馬守となっております。 水茎岡山城を築城(改修か?)し…

九里家伝承と東家・西家の関係ー

ーー書いたまま眠っていた記事をブログにあげておこうと思いますーー 九里家の伝承「広田与三左衛門重元、累世江州小幡ニ家ス、織田信長公城ヲ安土ニ構フ、時ニ小幡ノ住民ヲシテ城下ニ移サ使ム、後城傾類ニ及ビ信長公ノ八男、武蔵守信吉道ト公、館ヲ同州高野…

別紙古文書の謎の人物が現れた。

ーーー書いたまま眠っていた記事をブログにあげておこうと思いますーーー 古文書の別紙というのは↓ http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/e63a7015c2084976c81ffe666615840d 九里孫三衛門のことです。 その人と関連のありそうな人物が居りました。 それは、…

米沢藩主 上杉鷹山と九里三郎兵衛

ーーー書いたまま眠っていた記事をブログにあげておこうと思いますーーー 上杉鷹山という立派な心優しい米沢藩主がおりました。藩の財政難の折、薬種商の九里三郎兵衛は藩主に妙案はないかと相談を持ちかけられ、領地内の野草で薬となるものを集め、売ること…

九里の歴史 九里采女正

ーーー書いたまま眠っていた記事をブログにあげておこうと思いますーーー九里与右衛門という人が居ります。 たしか九里伝承に出てくる人は『九里与三左衛門』でしたので、『与』がついているあたり怪しいです。 『与右衛門』のほうは、九里采女正の息子の名…

九里四郎

ーーー書いたまま眠っていた記事をブログにあげておこうと思うーーー九里四郎 パリ滞在中1911年のモダンボーイ~の写真を見たことがある。 webによりますと~~ 1886年1月1日 生まれ- 1953年3月1日没 海軍主計大監・貴族院議員の南郷茂光の子。海軍少将・南…

六角氏頼の周辺(2)石寺

この地図の中の【美作守】というのが九里美作守賢秀 だろうか???九里美作守員秀だろうか????水茎の岡山城 九里氏は1467~77,年の応仁、文明の乱に戦功をたてた九里美作守賢秀を祖とし、その孫信隆が築城した。 九里美作守賢秀 を調べてみなくては。も…

六角氏頼の周辺(1)石寺の九里助泰 九里助恒 和歌山の九里系図より

1300年代、石寺は地名であったのか、お寺の名称であったのか。石寺 掃部助 石寺祝 属六角判官氏頼 住蒲生郡石寺観音寺城御屋形跡の麓にあるので、石寺からもアクセスできる道や階段があったようである。 まだ石垣も残っているようである。少し手前にある日吉…

九里宇左衛門良泰 石門心学 八日市市史より

江戸時代の九里氏を新たに見つけた。大河ドラマの【べらぼう】にも登場する人物、松平定信もその心学の影響を受けていたという。もう一人、京極材宗に仕えていたと思われる【九里大夫】員秀のことだろうか?

源光行の娘は、1244年にまだ生きていた。

源氏物語の研究者の源光行は、息 親行が1185-1187年あたりに生まれたという仮定により、建礼門院美濃局もそのあたりに生まれたかと思う。1214年迄生きていた建礼門院に仕える女房という事になるが、年齢的にも壇ノ浦の戦い の時に生まれていたかどうか‥‥と…

源光行の妻であり、親行の母であったと思われる【藤原敦倫】の娘の周辺(2)

池田利夫著の『新訂 河内本源氏物語成立年譜攷 ―源光行一統年譜を中心にー』30頁-31頁光行の妻への疑問があるようなので、確かめてみようと思う。藤原明衡ー敦光ー有光ー有季ー敦倫ー源光行妻(敦倫の実父が有季)1099年に有光生まれる1125年?三男有季生ま…

源光行の妻であり、親行の母であったと思われる【藤原敦倫】の娘の周辺(1)

藤原敦倫の周辺敦倫の娘が、源光行の妻となって親行の母となった。藤原明衡ー敦基ー茂明ー敦経ー敦倫ー源光行妻(敦倫の養父が敦経)藤原明衡ー敦光ー有光ー有季ー敦倫ー源光行妻(敦倫の実父が有季)では、藤原敦倫の周辺を調べてみよう。以下の系図も参考…

源氏物語研究者の源光行 再登場 (3) 建礼門院女房 美濃局の時代はいつか?

親行と同年代であったすると、1185年-1189年に生まれたとあり、その前後に建礼門院女房美濃局とすると、出仕したのはいつなのか?と言う疑問が生じる。源光行が1163年生まれなので、光行が18歳の時に美濃局が生まれたとして、4歳の時までに出仕したことにな…

源氏物語研究者の源光行 再登場 (2)

新古今和歌集の部屋さんより、記事の一部をお借りする。(感謝)吉書始https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/be851938c48cdaf1d9e9d48f4eb63b69建久九年(一一九八)戊午 この年、光行、鎌倉へ移住か。正治元年(一一九九)己未 一月源頼朝病歿す。二月光行は…

源氏物語研究者の源光行 再登場

源光行の娘は建礼門院美濃であり、美濃は建礼門院=平徳子のすぐそばに居た人物である。平徳子は安徳天皇の母親であり、壇ノ浦の戦いで生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔いながら生きるという 激動の人生を送る。さて、ここ…